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HÜTTEのブログ

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dialogue #1

 

11月某日『今日の出来事』

 

基本的に、このブログには仕事絡みのことは載せないようにしているのだが。

少し前の話だが、印象に残ったことがあったので、ちょっと記録しておこうと思う。

 

先日、旧友でもあるその男(仮名:T)と、10年ぶりくらいに会うことになった。

数年前に奴が地元に帰って来ていたのは知っていたが、たまたま街中で

会った際に、社交辞令的に「今度一杯飲ろうぜ」程度の話をするだけで、

特段接点も無かったのだが。

 

今回、仕事で微妙に絡む案件があり、「メールや電話でする話でもないな。

ちょっと顔見て話さないか。」などと言っていたのが、確か7月くらいだったと思う。

当初は、「仕事のピークを越えたら」とか、「ちょっと落ち着いたら」とか

聞かされていたのだが、そうこうしているうちに(人伝に聞いたが)何でも糖尿で

入院したらしい(笑)

そんなこんなで、気づけばもう11月だ。

 

さて、仕事の話もそこそこ纏まって、お互いに「最近どうよ?」的な話になった。

俺の方は相変わらずだが、何でも奴は、ちょっと前まで登山に凝っていたらしい。

正直(俺に限った話じゃないと思うが)Tには、年中美味い食い物屋を探している

とか、日々飲んだくれているイメージしかないので、そう聞かされたときはかなり

意外だった。

まぁ、さして興味も無いのだが、会話の流れ上、最近はどの山に登ったか聞いて

みた。恐らく、自信たっぷりに「藻琴山だ!(笑)」とか言うオチだろうなと。

 

「具体的には、山には登っていない。」

 

あー…。何言ってんだこいつ?

 

「俺は、山に登らない登山家なんだよ。」

 

お前もう酔っぱらってんのか?というこちらの表情を察したのだろう、奴がべらべら

話し始めた。相変わらず話しが長く、結論が最後に来るので要点をまとめると、

・人は皆、生まれながらに登山家である

・なぜなら、“生きること”とは、それ自体が登山であるからだ

・そして、登るべき山は、仕事であったり、子育てであったり、勉強であったり、

人それぞれ違うのだが、“頂きに達した時に、眼前に全く違う景色が広がっている”

という点において共通している

と、いうことの様だ。

 

こう聞くと、結婚披露宴などで挨拶の下手な奴に限ってよく使う、陳腐な例え話の様

だと思ったが。それこそ、奴がまだ地元に戻ってくる前、まだ奴が多忙を極めていた

頃の話だ。たまたま打合せに同席した経営コンサルタントが、「まぁまぁTさん、

“忙しい”という字は“心”を“亡くす”と書きましてね…(笑)」などと語り始めた時に、

「うっせぇな!忙しいもんは忙しいんだよ!邪魔だ!とりあえずそこどいてろ!」

と怒鳴りつけた印象が強すぎて、この男の口からこういう言葉を聞くのは、かなり

意外だった。この数年の間に、奴の中で何があった?と、ちょっと興味を持ったので、

そのまま話を聞くことにした。

奴が続ける。

「登山家にとって、最も重要なものは何だと思う?」オチが見えた、という声が

聞こえてきそうだが、それはとりあえず気にしない。

 

さておき、自分はこの種の問いかけが嫌いだ。出来の悪い営業マンにありがちな、

「自分は正解を知っていて、かつ、その答え(的なもの)は、自分の主張にとって

有利に働くものである」と相場が決まっているからだ。

 

まぁ、いい。そこもちょっとイラッとするが、久しぶりなので一応答えてやる。

「うーん…。食料、装備…、いや、自分のスキルに見合ったルートの選択…、あと何だ…」

「どれも違うな」

ほら来た(笑) ていうか、そう言うのは分っていたが。

 

「正解は…、山小屋だ!(笑)」

ちょっと待て。いや、正解が何かというより、何だそのドヤ顔は。何が言いたいか

分からんが、いずれにしても、本物の登山家が聞いたら怒られそうな話だぞ、それ。

そして、Tの珍妙な趣向の開陳はまだまだ続く。

「だが、山小屋なら何でもいいって訳じゃない。」

「豪華じゃなくていい。軽いものでいいから美味い食事、そして静謐な空間。」

「さらに、窓から見えるいい景色。」

「欲を言えば、小さくてもいいから露天風呂があって、そこからその景色が眺められれば

最高だ。」

「そして絶対に外せないのが、美味いコーヒーだ。これだけは絶対に譲れない。」

 

いや、露天風呂って、どこのリゾートホテルだよそれ。山小屋に露天風呂ってなぁ、と

反論しかけて、いいかげんバカ臭くなってきたのでやめた。Tのことだ、どうせ

「分からん奴だな。“山に登らない登山家にとって”という前提だ。」などと、屁理屈を

こね回すに決まっている。昔からそうだが、良くも悪くも、理屈でこの男に勝てる気は

しないので、そのまま黙って聞くことにした。

それからしばらく、奴が理想とした山小屋の記憶を、延々聞いていた気がする。

奴は話した。

サラリーマン時代には考えたこともなかった、“人間が動くエネルギーはどこから来る

のか?”ということ。その山小屋なるものが閉められてから暫くの間、休日の午後は

何をしていいか分からなかったこと。あたかも“自分を振った女に「俺、これから

どうやって生きていけばいいんだよぉ!」と泣きつく惨めな男”の様な自分自身に、

苦笑いする日々を過ごしたこと。一時は、その空間に替わる、とまでは言わなくても、

その穴を埋められるかもしれない場所を探そうと必死になったこと。だが、そんな

ものは、この地上には存在しなかったこと。

そして、心のどこかで、そんなことは最初から分かっていたこと。

 ここ最近は、お子さんの送迎がてら、休日の午後は図書館で過ごすことが多いこと。

傍から見たら心の平静を取り戻したように見えているだろうが、今でも、誰かが当時の

山小屋のことに触れると、どうしようもく心がざわつくこと、など。

 

時に遠くを見ながら、時に目の底をギラつかせながら延々語る奴の姿は、もはや

「熱っぽく語る」とか、「思いの丈をぶつける」とか、そんなものではなかった。

それはある種の濁流の様であり、きっと「誰かに話したい」、「だが、およそ理解され

ない」、「むしろ、理解されたくない」、そんな色々な思いが、ごちゃ混ぜになって溢れ

出しているんだろうな、と思った。きっと、『堰を切った様に』とは、こういう場面で

使う言葉なのだろう。

 

 

気が付けばすっかり日が落ちて、外は真っ暗になっていた。

話すだけ話して落ち着いたのだろう、妙にすっきりした顔つきになったTから、「いつか

どこかで、山小屋の主人に会ったら伝えてほしい」と、伝言を預かった。「自分の心

は、未だ決して癒されぬ渇きの中にいる」、そして「再開を待ちわびている」と。

 

既に俺の奴に対するイメージは伝わっていると思うが、およそ『歩く合理主義』、『呼吸

する屁理屈』的な奴の口から、こんな一連の言葉を聞く日が来るとは。思わず、

「何だおい、意外とロマンチストなんだなぁ(笑)」と思わず吹き出してしまったが。

 「違うな。俺はリアリストだと思ってる。」

「ホントに、カラカラに乾いてんだよ。」

「実際、“あの日”以来何を飲んでも、この乾きが癒されることは決してない。」

 

どこかで聞いたようなやりとりだとも思ったが、奴の、今にも泣き出しそうな、それで

いて飢えてギラ付くような、何とも言えない目つきを見ていると、俺はそれ以上何も

言えなかった。そんなやりとりをして、その日はTと別れた。

 

 

それから数日間、何だろうか、何かこう釈然としないというか、何かが自分の中で

引っかかっている感覚で過ごした。たまたま今週末はカミさんと娘たちが出かけており、

土曜の夜に家で一人なのは久しぶりだった。手持ちぶさただったので、先日Tから

「値段の割に美味いぞ!」と貰った「バロン・ダヴラン」とかいう赤ワイン(ACブルの

割には美味いとか、ピノ・ノワールが何とか、等と色々語っていたが、正直殆ど

覚えていない)を抜いてみた。一人だったので、大したツマミも用意せず、がぶがぶ

飲んでいたせいか、大分酔いが回ってきた。自称、酔拳の使い手である俺は、

「飲んでる時にふと気付く」ことが結構ある(笑)

今回も、やっと気づいた。

ここ数日の違和感というか、気持ちのどこかに、前の日晩飯で食った魚の骨が

引っかかっているような感覚の理由が。

 

俺はきっと、羨ましかったんだ。

Tの言っていた、たった一杯で、いや、その薫りを嗅いだだけで、魂を鎮められるという

コーヒーが。「時間はコストだ!」が口癖で、いつもバタバタ走り回っていた奴を、

およそ「静謐な時間」なんて物とは無縁だったあの男を、そこまで変えてしまうような、

その場所が。そして、自分の時間の過ごし方(それは“生き方”と言い換えられるもの

でもある)に、そこまで影響を与えることのできる場所と出会えた奴の幸運に、俺は

嫉妬していたんだと思う。

 

今なら俺も思う。

いつ、どこで会えるかもわからないが、その山小屋の主とやらに会ったら、必ず

伝えよう。

 

Tの伝言に加え、

「俺も、早くあんたの淹れたコーヒーを飲んでみたいんでね」と。

 

2021-01-02 6:32 PM|だいじなお知らせComment(0)

monologue #5

「ライフラインだから」。

Tさんは隣町からHUTTEへ足しげくかよってくれる理由を、そんなふうに表現

した。命綱。生命線。飲食店店主の立場においてうけとるならば、「これはもう

そうそう簡単に休むわけにはいかないぞ」と肩に力のはいる(実際はもともと

すくなく設定した営業日をさらに削ったりもしたけど)殺し文句である。言われて

すぐは、「ちょっと大げさじゃ? 」と思わないでもなかった。しかしながら、ほほ

笑みのなかに疲労をにじませた顔で店にやってきては肘掛け椅子に身をなげ、

「ふ~」とか「いや~」なんてふうに深々とため息をついたり、ときにはその姿勢

のままうたた寝しちゃったりと、そんな脱力タイムをすごしたのちに、おもむろに

からだを起こし、入店したときよりあきらかに光の量が増した眼差しで店を

あとにする。そんなプロセスをなんども目の当たりにするうちに、たしかに

この空間をふくむ僕らの提供するものごとがTさんの精神や肉体に積もった

汚れをとりはらうように作用してるんだろう、だからそのままの意味合いで

うけとっていいんだろうなと次第に思えてきたのだった。ちなみに奥さんと

来店されたある日には、その肘掛椅子にむかいあう形で座り、うなずき合い

ながら「もうこの席、露天風呂(と同レベルの癒やし効果がある)だよね」と、

そんなふうに形容されたことも。ライフラインほどパンチはないけど、これ

また「よっしゃ、やってやろうやないか。なんなら布団おひきしましょうか」

ともてなし精神に火をつける、心憎い表現である。

 

 

経営者の立場にありながら、みずから得意先まわりを欠かさないバイタリティ

あふれる仕事人間であり、家族の時間をほかのなにより優先し、大切にもする

佳き夫でもあり、2人の娘さんとつねにおなじ目線で会話する心優しい父親

でもある。さらにいえばススキ…いや札幌の飲食業界にとても詳しく遊び人と

しての一面ももっている。いろんな顔を生きている、しかも、どの顔のときも

全力で。そんな印象を、僕はTさんに抱いている。抱きつづけている。

「それは褒めすぎだよ、のだくん」と本人はきっと苦笑いするだろうけれど、

でもものごとをついつい斜めから、それも冷めた目でみてしまう傾向の僕

からすれば、Tさんの言動が発する熱量はいつでもそうとうな高さに

感じられるし、存在そのものがまぶしくうつった。40代男性としてのあるべき

姿のひとつといってもいい。ひさし会っていないけど、今もそのイメージは

薄れることなくある。食べっぷりもまた豪快なものだった。HUTTEのキッチン

で生産されたものの総量を100でいうと、そのうち60~70%はTさんが消費

した、それくらいのイメージだ。「大げさだよ、冗談じゃないよ、のだくん」と

またつっこまれそうだが、でもまあたしかにいじられたがりのTさんを喜ばせる

ために誇張したけど、5割ならそう外れてないだろう。だってベーグルサンドを

食べたあとに日替わり焼き菓子を追加するのが基本スタイルだったし、

なんならサンドを2個たいらげてから焼き菓子も2個というパターンもあった。

珈琲にしてもよほど時間的な余裕がない日をのぞけば毎回おかわりして

くれたのだ。さらに書くと、水出しアイス珈琲をたてつづけに3杯、ほぼ一気

飲みして我々をびっくりさせたこともあったし、けっこうなボリュームのカレー

とHUTTEプレートをつづけざまに完食した「事件」は、そのあとしばらく

我が家の話題というかネタになりつづけたのだった。

大食いって、みかたによっては「味わう」よりも「消費」が前提で、なんとなく

卑しさみたいなマイナスイメージで僕らは捉えてしまう行為だけど、Tさんの

場合はそんな雑な姿勢がいっさい感じられなくて、差し出したもの一つ一つ

をものすごく味わってくれたし、食べ終えたら時間をかけて選んだ言葉で

肯定的な感想をくれた。作り手としてこれほど勇気づけられることはない。

「ただ好みだから、たくさん食べる」という、さしだす側とうけとる側の、

シンプルで幸福な関係がいつのまにかできあがっていたことに僕は

気づかされ、そのかたいっぽでいられることに深く感謝した。

キッチン班も声にこそあまり出さなかったけど、Tさんをむかえたときには、

その信頼を意気に感じているのが表情によく現れていた。Tさんの肯定、

承認は僕らにとっての原動力であり、創作の意欲をかきたててくれる火種

だった

 

#1に記した「生き返った」男性のエピソード。僕をいつも励ましてくれるこの

記憶の主役がTさんである。あれから5年経つけけれど、Tさんはきっと今日

もかわることなく、僕らになしたのと同じようにどなたかの人生を支えている

ことと思う。その人の毎日に欠かせぬライフラインとして。

2021-01-02 3:10 PM|だいじなお知らせComment(0)

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